主婦になって驚いたこと。

 たくさんありますが、何を隠そう一番驚いたのは、ジーンズが自然とダメージ加工されること。
 別に毎日一生懸命ひざをついて床をぞうきんがけしたりしているわけではないのに、しばらく経つとひざの部分がすり減って穴があいてくる。
 何もわざわざ中国や東南アジアあたりの人々に、細かい砂の粒を吹きかけてもらってダメージを装う必要もないのです。
 ただ、穴が開くのはもっぱら膝の下あたりで、これはしゃがんだときに少しズボンが持ち上がって、ちょうど立った状態だと膝の下あたりの部分が膝頭にくるからなんです。
 ジーンズに限らずダメージ加工というのは、基本的に新品を使い古したときにそうなるであろう状態を想定して傷をつけたり色褪せさせたりするんだろうけれど、よくオシャレジーンズで、太ももの前側あたりの広い範囲を薄く擦り切れたようにしてあるのって、あれはどういう労働をしたらそうなると想定されているんだろうかと疑問に思う。
 あんな破れ方は、少なくとも日常生活では絶対にしない!
 色々考えたけれども、太ももばかりが擦り切れる仕事は全然思い浮かびません。
 そしてそもそも、ジーンズを正統な破れ方をさせている私としては、ダメージ加工の理不尽な破れ方が許せない!
 そういえば昔、ヴィンテージのオシャレジーンズが高いので、普通のジーンズをヴィンテージっぽく見えるように膝で歩いてみたり道路を転がったり砂場で遊んでみたり(高校生。)したけれど、穴のひとつもあかなかった。
 望むときには開かず、望まざるときに開く。
 ジーンズの穴に人生を投影させてしまいますな。
 

 そういえば、葵のジーンズは真っ先にお尻に穴が開いていた。
 滑り台の滑りすぎ。
 どんだけ滑ってんだ。

記憶と現実。

 古い友達と話していると、すっかり忘れていた出来事を指摘されたり、自分や相手についての記憶が妙な形に編集されて定着していたりすることが分かったりする。
 あなたは高校時代悪かったと、親しい彼女が言う。
 それは記憶違いだと私は言う。
 私は何も悪いことをしていないのに(「悪いこと」どころか、スカートの丈が短かったり化粧をしたり髪を染めたりしたこともない)、なぜか先生に頻繁に放送で呼び出されて「お前何か悪いことしてないか」とか脅されていただけだ。
 (これについては未だに当該教師に恨みを抱いているし、絶ち切れない教師全般に対する不信感にも結び付いている)
 逆に、彼女の彼氏は電話口で私に彼女との仲を取り成してほしいと泣きついてきたりして、最低なネクラ男だったと私が言う。
 すると彼女は、あれは彼氏ではなく一方的に、しかも「付き合ってくれないと死ぬ」とかいう脅しをもって言い寄ってきていただけだと言う。
 私が、○○くんのことがすごく好きだったと言う。
 彼女は、あなたは彼のことを途中から完全に疎ましがっていたと言う。
 彼女が、あんな部活をやっていたけど、つまらなかったと言う。
 私は、あなたはものすごく楽しんでいたと言う。
 10年以上経って、お互い自分のことも相手のことも、上手い具合に再編成されて記憶と思いこんでいる。
 そうやって彼女と一緒に誰々さんは○○してたね、いやいや、△△だったよ、などと記憶の確認作業を重ねていると、自分以外は変わっていないように思えてくる。
 それだから、誰々くんが結婚して子どもがいるという話を聞いたりすると、その誰々くんの高校時代しか知らないわけだから、よくもまぁあんなに頼りない男と結婚する人がいるもんだと呆れたり信じられなかったりする。
 自分だけは年を重ねてそれなりに大人になっているのに、当時の男友達なんかは今でもロケット花火で撃ち合いをして制服に穴をあけてふざけ周っていると信じ込んでいる。
 それ以来会っていないからかもしれないが、私はその彼女と高校卒業以降も会っているのに、未だに彼女と会うとおそろいのブレスレットを買ったりするところを見ると、友達というのは出会って親しくなった時期からの印象でその後も一生付き合っていくものなのかもしれない。
 学校帰りにアイスをかじりながら手ぶらで相手の家に上がりこんでいたときとは違い、もちろん二人とも大人になって、結婚や出産のお祝いを贈り合ったり、家に行くときには手土産を持参したりする。
 けれど根本的な部分で相手に対する意識というのは変わっていない。
 中高の友達には、中高時代の私、大学の友達には大学時代の私、院の友達には院時代の私、同じ一人の私でも、会う相手によって成長段階のそれぞれの時点での性格や雰囲気を無意識に再現して見せることを求められ、なおかつ私もそれを実行しているのかもしれない。

 今となっては現実的になり、委縮している部分さえある私なのに、彼女が私を、思春期の無謀さ(つまりあの時期特有の高揚感とか万能感に基づく振る舞いや態度)をもってアイデンティファイしていることに驚いた。
 

バラ満開。

 庭のバラが満開です。


 毎年、ほったらかしなので絶対枯れていると確信しているのに、必ず咲いてくれる。
 バラは難しいときくが、うちはこのツルバラを始め、バラだけは枯れないのです。
 農薬、肥料等一切不使用。エヘン。(ほったらかしなだけ。)
 アーチにしようとして、アーチの左右に植えているのだが、後もう少し。
 もうちょっと自力で頑張れ。
 一時100輪くらい咲かせていて、あまりにきれいなので切りとるにも切り取れず、機を逸してちょっと花弁が開きすぎてしまい、捨てるにも惜しいので花弁だけちぎって「お風呂に入れてね」と近所の女の子たちにあげました。
 無農薬なので安心!(ほったらかしなだけ…)
 

非行への階段。

 最近、ウチは子どもたちのたまり場になっている。
 下は3歳から上は小学校3年生まで。
 その日の幼稚園や小学校が終わって、習い事のない子が入れ替わり立ち替わり集まってくる。
 なかなか多種多様な顔ぶれで、中にはどこの誰だか分からない子までいる。
 おやつを座って食べろー!!と言うと、キャーと言って走って逃げて行く。
 喧しいから外で遊べー!!と言うと、公園ではなく、庭に飛び出しそこらじゅう泥だらけにする。
 ごはんの時間だから帰れー!!と言うと、まだ遊びたいー!!とか言ってギャーギャーまたひと騒動起こる。
 人ん家だと思って(?)やりたい放題である。
 大体一日に2、3人が相場だが、一度雨の土曜日に10人集まったときは、騒然となった。
 我が子が楽しいなら、家が汚れるくらい別にかまわないのだが、女の子なんかは座ってお菓子を食べながら私とおしゃべりしたがるから、大人しいけれど逆に手がかかってやっかいだったりする。
 しかし、チビっ子のくせに、こうやって「女子」になって行くんだなぁと、その過程はなかなか興味深いものである。


 私は子どもが嫌いなので、来られると正直鬱陶しい。
 我が子だけでも鬱陶しいのに、一人増えるだけで倍以上鬱陶しくなる。
 人の子に愛情を感じないから余計鬱陶しい。
 自然、子どもへの態度も邪険になる。
 けれど、ある程度大きくなると、もしかするとこのサバサバ感が居心地良いのか、意に反してなかなか懐かれる。
 逆に、優しい言葉や態度が必要な1,2歳の子は決して私のところには寄ってこない。
 義妹の子なんか、生まれてから毎週1回は会っているのに、私の顔を見ると未だに瞬時に笑みを凍りつかせる。
 こっちも義妹は好きだし義理があるが、子どもは好きではないのでそのまま放っておく。
 こんな具合だから、近所の小さい子なんかは到底懐かない。
 こっちも懐かれてたまるかくらいに思っている。


 こういうのがいつまで続くのか、とふと思った。
 他の家ではなく、うちに集まってくるのには、何か理由があるはずだ。
 私が基本的に全く放置で自由にできるからかもしれないし、おもちゃが異常なほどあるからかもしれない。
 時々サービス精神を起こしてスライムを作ったり、ペットボトルで実験みたいなことをしてみたりしてやるから、図に乗っているのかもしれない。
 まだ小さいからいいものの、こういうのが長じて(?)不良のたまり場になったりするんじゃないのか。
 私が「コドモキライコドモキライ」と呪文のように唱えて放置している間にも、いつの間にか現・子どもたちは「子ども」とは呼べない年になり、子どもの遊びとは言えない遊びをし出すんじゃないか。
 そしてそれでもなお私は「コドモキライコドモキライ」と言って、関わるのを避けているかもしれない。
 不良のたまり場になっている家の親というのは、概して子どもを放置して、物だけはたくさん与えているという先入観がある。
 おお、そのままウチに当てはまる。
 ちっとは相手してやるべきかな…
 悪の芽は早いうちに摘むに限る。

GW。

 旅行は、楽しいけど疲れます…
 すごい渋滞に巻き込まれるし…
 でもまぁ、子どもたちが楽しんでたので良かった良かった。
 行き先は、いつも海。
 理由は、葵が海の生物が大好きだから。
 海に行きたくて行きたくて仕方ないようだ。
 今回も葵は、旅行40日前くらいからカウントダウンを始め、20日前くらいから自分の荷物をまとめ始めた。
 リュックに詰め込んだのは、『危険・有毒生物図鑑』、『水の生物図鑑』、『へんないきもの』、『ほんものの大きさ図鑑 原寸大 水族館』。
 もはや自分で持てないほど重い。
 しかもせっかく持って行ったのに、実際には生物を捕獲することに夢中で、とてもじゃないけれど図鑑まで意識がまわらなかったようで、遂に一度も開くことなく単なるお荷物になっただけだった。

 ヒトデ。
 同じイトマキヒトデなのに(若干私も詳しくなっている)、なんで色が違ったりするんだろう、といつも疑問に思う。
 生まれつき?それとも、カメレオンみたいに場所によって色が変わるとか?
 いやぁ、並んで貼りついている2匹でも、違う色していることあるけどなぁ。

 アメフラシは、やっぱり紫の液を放出。
 今気付いたけど、この顔は…むむむ、カタツムリさんの親戚ですな。

 これはなんと、ウミウシのたまご!!!

 一年前にも網ですくい上げ、その時は細いナイロンのロープか、ごわごわした安物の毛糸の塊か、カップラーメンの麺だと思っていたのだが、その後家に帰って何気なく図鑑を見ていてそれがアメフラシの卵だったことが分かった。
 「ウミソウメン」とか呼ばれているそう。
 ほんとに、麺のよう…
 それに気付いたときには背筋がぞわぞわっとした。
 色が黄色とかオレンジとかなので、素麺というよりラーメンなんだけど、何にせよ食べ物にたとえるな!!
 近づいてよーく見てみると、卵のつぶつぶがある。
 私は触らなかったけれど、ぬるぬるしているというから、カエルの卵みたいな状態なのかな?
 でも、それにしては、かなり乱暴に網ですくってもぐちゃぐちゃになったりしなかったので、もっと強度はあるんだろうと思う。
 海藻の茂みの中に絡まってゆらゆらしていた。
 アメフラシは春先くらいにしかいないようだ。
 夏に行ったときには親も卵も見つからなかった。
 しかし、卵の一つ一つは1ミリもないのに、捕まえたアメフラシは30センチくらいあった。
 しかもめちゃくちゃ肉厚。もしかしたらほとんどが水分なのかもしれないけれど。
  葵が「水族館」と呼ぶコンテナの中で元気に動き回っていて、ほとんど動かないヒトデなんかと比べると、いかにも生物然としている。
 地上の卵生生物の卵対成体の大きさなんて比じゃない。
 脅威の成長である。
 海ってすごい。
 いや、淡水魚でもめちゃくちゃ大きいのがいるから、水中ってすごい、なのかもしれない。
 

 5月はまだ寒い。
 服を着たままなのに海に突入していこうとする子どもたちを不本意ながら何度も諌めた。
 そして今日からまた、夏の海に向けてのカウントダウンが始まる。

主婦の謎。

 子どもが二人とも幼稚園に通うようになってからは、平日が私の休息日みたいなもの。
 朝決まった時間に起きて、手早く登園準備をさせるのは面倒ではあるが、それさえ済ませてしまえば後は5,6時間は一人。
 家事も大体午前中には終えられるし、昼食だって一人だと摂ったり摂らなかったりで、夕食の下拵えをしても2時間弱くらいは毎日自分の自由になる時間がある。
 片づけるそばから散らかされたりもしないし、喧嘩の仲裁に入る必要もないし、日曜日ともなればいつまでも転がっている一番嵩張る目ざわりなお荷物もない。
 一人の時間をもつようになって2,3日は、少し寂しい気もしたけれど、今となってはもう、まだ遠い夏休みを思って背筋の凍る思いである。
 カレンダーでは3連休明けの今日の平日か、私の休息日。
 あぁ、3連休…疲れた。
 GWもまだ後半残っているけど、それさえ終わればもう夏休みまでは快適に暮らせそうな気がする。


 しかし、自分がこういう生活をしていてふと思うのは、他の主婦たちはこの完全に自由になる2時間を、どう使っているのかという疑問。
 私の場合は、基本的に本を読んでいる。
 そして眠たくなってきたら寝る。
 極楽極楽。
 ちょっとでも時間があれば、本を読む。明快である。
 では他の人たちは?と思って聞いてみると、ぼーっとしている、休憩している、と。
 2時間もぼーっとできるか?
 休憩って、何するの?
 もしかしたら私よりものすごく掃除なんかを頑張っているのかと思いきや、色んなお宅にお邪魔してみても、そういうわけでもなさそう…(失礼)。
 しつこく食い下がって尋ねても、何もしていない、何してるんだろう、ハハハみたいに言われる。
 本当にみんな、何してるんだろう…

読書は必要?

 先日幼稚園の幼児教育講演会に行くと、講演者が子どもに本を読ませろと100回くらい言っていた。
 この先生だけじゃなく、とにかく子どもに本を、とよく言われるのだが…
 …なんで???
 読書ってそんなに大切なのかなぁと疑問に思う。
 子どもに本を読ませるためなら低俗なものでも漫画でも何でもいいとまで言われるのだが…
 私自身は活字中毒の気があるので、時には掃除機をかけながら、時にはフライパンを振りながら、片手には本、という生活をしているが、それがいいことだとは全く思えない。
 たとえとても評価の高いブンガクの中の一作品を読んでいても、これは単に時間を娯楽に費やしているという感覚を持っている。
 読書に費やす時間の中で、時間を無駄にしているという感覚を持たないのは、論文など書くために先行研究を検めているときくらいである。
 アル中はアル中とつるむように、ニコ中はニコ中同士共感し合うように、活字中毒活字中毒仲間を求めるという意味では、私は子どもたちに読書好きになってもらいたい。
 子どもたちがいつか自分で本を読むようになったら、家族4人各々「今月のオススメ本」を毎月一冊選んで書評を書き、コルクボードにでも貼ったら楽しいだろうなぁと妄想している。
 だが、お偉い先生方のおっしゃるように、読書が人間性、人生を豊かにするとか、読書は国語の素地を形成し、それが全教科の成績につながっているとかいうのには首をかしげざるを得ない。
 本の虫である私が、本は雑誌も含め何年も読んだことがないという近所の主婦友達よりも、人間性が豊かだったり、素晴らしい人生を送っていると言えるなんて、到底思えない。
 「算数の問題は文章題なんだから、読解力がなければ解けない」などと書いてある本にもたくさん出会ったが、読解力がなければ解けない算数の問題は、問題が悪いと思う。
 何か一つのことについて多角的に知りたいとか、多くの知識を得たいとかいう場合に、その分野について何冊も本を読むことが必要になる場面はあると思う。
 だけど、それはその時に必要な分だけ読めばいいわけで、別に日常的に読書が必要なわけではないのではないか。
 子どものときから読書に親しんでいない人は、急に読書が必要になっても読めない?
 それは、高校生に「挨拶をちゃんとしないと社会人になってやっていけないぞ!」と脅すのと同じだ。
 挨拶をしない高校生だって、社会人になって、挨拶をしなければ自分が不利益を被る状況になったら、めちゃくちゃ挨拶すると思う。
 読書だって、別に習慣化しなくても、必要に迫られたときに読めばいいんじゃないかと思う。
 

 本を読みたいという気持ちは分かるので、読みたいと言う我が子に読書はやめろなどと言うつもりはないが、幼稚園であまりにも読書読書と言われるので不愉快になった。