記憶と現実。

 古い友達と話していると、すっかり忘れていた出来事を指摘されたり、自分や相手についての記憶が妙な形に編集されて定着していたりすることが分かったりする。
 あなたは高校時代悪かったと、親しい彼女が言う。
 それは記憶違いだと私は言う。
 私は何も悪いことをしていないのに(「悪いこと」どころか、スカートの丈が短かったり化粧をしたり髪を染めたりしたこともない)、なぜか先生に頻繁に放送で呼び出されて「お前何か悪いことしてないか」とか脅されていただけだ。
 (これについては未だに当該教師に恨みを抱いているし、絶ち切れない教師全般に対する不信感にも結び付いている)
 逆に、彼女の彼氏は電話口で私に彼女との仲を取り成してほしいと泣きついてきたりして、最低なネクラ男だったと私が言う。
 すると彼女は、あれは彼氏ではなく一方的に、しかも「付き合ってくれないと死ぬ」とかいう脅しをもって言い寄ってきていただけだと言う。
 私が、○○くんのことがすごく好きだったと言う。
 彼女は、あなたは彼のことを途中から完全に疎ましがっていたと言う。
 彼女が、あんな部活をやっていたけど、つまらなかったと言う。
 私は、あなたはものすごく楽しんでいたと言う。
 10年以上経って、お互い自分のことも相手のことも、上手い具合に再編成されて記憶と思いこんでいる。
 そうやって彼女と一緒に誰々さんは○○してたね、いやいや、△△だったよ、などと記憶の確認作業を重ねていると、自分以外は変わっていないように思えてくる。
 それだから、誰々くんが結婚して子どもがいるという話を聞いたりすると、その誰々くんの高校時代しか知らないわけだから、よくもまぁあんなに頼りない男と結婚する人がいるもんだと呆れたり信じられなかったりする。
 自分だけは年を重ねてそれなりに大人になっているのに、当時の男友達なんかは今でもロケット花火で撃ち合いをして制服に穴をあけてふざけ周っていると信じ込んでいる。
 それ以来会っていないからかもしれないが、私はその彼女と高校卒業以降も会っているのに、未だに彼女と会うとおそろいのブレスレットを買ったりするところを見ると、友達というのは出会って親しくなった時期からの印象でその後も一生付き合っていくものなのかもしれない。
 学校帰りにアイスをかじりながら手ぶらで相手の家に上がりこんでいたときとは違い、もちろん二人とも大人になって、結婚や出産のお祝いを贈り合ったり、家に行くときには手土産を持参したりする。
 けれど根本的な部分で相手に対する意識というのは変わっていない。
 中高の友達には、中高時代の私、大学の友達には大学時代の私、院の友達には院時代の私、同じ一人の私でも、会う相手によって成長段階のそれぞれの時点での性格や雰囲気を無意識に再現して見せることを求められ、なおかつ私もそれを実行しているのかもしれない。

 今となっては現実的になり、委縮している部分さえある私なのに、彼女が私を、思春期の無謀さ(つまりあの時期特有の高揚感とか万能感に基づく振る舞いや態度)をもってアイデンティファイしていることに驚いた。